2010年3

期間:2010.3.4〜3.11

海老澤敏先生と行く

モーツァルト音楽紀行 「北方への旅」

ベルリン〜ポツダム〜ドレスデン〜ライプツィヒ〜プラハ


海老澤先生の講座を受講し始めてもう既に4年程になり、先生のモーツァルト音楽ツアーにいつかは参加してみたいと思い続けてきたのだが、今回そのチャンスが漸く訪れた。

十数年にわたり、モーツアルトの足跡を訪ねる旅が今まで続けてこられたそうだが、今回はモーツァルトが亡くなる約2年前に巡った旅「ウィーンから始まり、プラハを経由してドレスデン〜ライプツヒ〜ポツダム〜ベルリン」と言うコースの逆を辿る旅であった。

早朝のベルリンの街角(ホテルの窓から)

   

3月4日成田を発ち、ヘルシンキを経由してベルリンの空港に降り立ったのは夕方で、その日はホテルに直行し翌日に備えた。そして翌5日はベルリン近郊のポツダムを訪れた。あの「ポツダム宣言」で有名なこの都市は人口が17万人余りの非常に落ち着いた綺麗な町で、当時のプロイセン国王である「フリードリヒ・ヴィルヘルム2世」の為の夏の離宮「サン・スーシ宮殿」がある場所である。

   

1789年4月に、パトロンでありクラヴィーアの弟子でもあった「リヒノフスキー公爵」と共にライプツィヒを発ち、ポツダムを目指したモーツァルトは「フリードリヒ・ヴィルヘルム2世」に謁見許可を申し出たが、パリで知り合ったベルリン宮廷音楽総監督「ジャン・ピエール・デュポール」に先ず会えという命をもらった。結局国王に会えずじまいのモーツァルトは、ポツダム滞在中に、このチェロ奏者でもある「デュポール」の為に「デュポールのメヌエットによるクラヴィーア独奏の為の九つの変奏曲:K 573」を作曲している。

モーツァルトにとってこのポツダムは結果の得られない場所とはなってしまったが、そこに美しく存在する「サン・スーシ宮殿」は、実はプロイセン王国の前任国王である「フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)」が創り上げた離宮で、ドイツ・ロココの傑作であると共に、べルリンの音楽的栄光が頂点に達する象徴でもあった。かの大バッハもこのサン・スーシ宮殿でフリードリヒ大王に謁見し、又当時の名フルート奏者:ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツやC・P・E・バッハなどが大王の側近として活躍していたのである。晩年に芸術を除いては、人間を信ずる事が出来なくなっていった大王の墓に接した私達は、海老澤先生の云われる「バロックの残像」というものを、重ねあわさざるを得ないような気持ちになっていた。

その後ベルリンに戻ったその夜は、「ドイツオペラハウス」で「魔笛」を鑑賞した。正直に言って、まあまあ、可もなく不可もなくという様なそんなオペラであった様な気がする(?) とにかく幕が上がって、歌手が鬘をつけ普通の衣装をまとっていれば、先ずは一安心と言うのが昨今のドイツオペラ事情なのだから・・・。ただ柔道着のような衣装がちょっと気になったのだが、全体的に(特にフィナーレの部分)照明が綺麗で、又ザラストロのいる世界で、群集が麦の種を撒き育てていく様は、恐らく「フリーメイソン」の思想を具現化したとも捉えられるのかも知れないと感じた。

主なキャストは以下の通り。

指揮:エヴァン・ロジスター  演出:G・クレメル

キャスト  ザラストロ:A・ジェルクニカ   タミーノ:C・ビーバー

      夜の女王:Burcu・Uyar      パミーナ:H・ストーバー

      パパゲーノ:S・パウリー     パパゲーナ:M・ヴェルシェンバッハ


   

6日はベルリンでの二日目で、昼間は一般的な市内観光を行なった。今は平穏そのものである「ブランデンブルグ門」、「シャルロッテンブルグ宮殿」などを見学した後、お目当ての「ティーアガルテン」にあるモーツァルトの像に向かう。ベートーベンそしてブラームスの3人が3面に彫刻され、一体になった大きな彫像である。その写真をわが「日本モーツァルト愛好会」の入会案内パンフレットの表紙に使っているが、後で自分達の撮ってきた写真をみるとその写りにちょっとがっかり・・。パンフレットに載る凛々しいモーツァルト像は、代表が以前、悪天候の合間を縫って意を決して撮影して来たもので、技術もさることながら今更ながらその熱意に感嘆するのみ。

さてその公園の傍には一度は入って聴いて見たいホール「ベルリン・フィルハーモニー・ホール」があるが、今回は残念ながらそのホールに付属する「楽器博物館」の見学で我慢する事になった。しかし、モーツァルトが弾いたとされるものと同じ型のクラヴィーアや、フルートの歴史を大きく塗り替えたフルート製作者「テオバルト・ボエム(ドイツ・ババリア地方の出身、1830年頃に改良製作)」のフルートを見られたのは大変な収穫だった。そのフルートはほぼ現在の近代フルートと同じで、少し黒ずんだ銀の笛はちょっと触って見たい衝動にかられる。

    

さてその夜は「コンチェルトハウス」での「ベルリンシュターツカペレ」によるコンサート。 指揮は当初ジェームス・レヴァインであったが、急遽降板で実にバレン・ボイムと言う具合。曲はマーラー「交響曲第3番」。結果論だがバレン・ボイム渾身の指揮とシュターツカペレのエネルギッシュな演奏は素晴しく、終了後は全員総立ちのスタンディングオベーション。モーツァルトとは全く毛色の違う音楽で、当初はコンチェルトハウスを見る事が目的でもあったのだが、終わってみればよい経験ができたという気持ちが強かった。(ただ、正直なところマ−ラーの音楽性自体については今だに理解できていない・・というのかもっと簡単な言葉で表現すれば感性が一致しないというのが本音。)

  

翌日7日は、いよいよベルリンを離れてドレスデンに向かう。250kM近く離れた地となるドレスデンは、モーツァルト生誕の2006年に訪れた記念すべき懐かしい都市。3月だと言うのにベルリンから始まった今回のドイツはその時よりも寒く感じる様な氷点下の中、その日は夜のコンサート等は無しの観光のみとなった。第二次大戦で徹底的に破壊された後、市民の懸命の努力で見事に修復された「聖十字架教会」や「ゼンパーオーパー」などを廻ったのだが、特にこのドレスデンで想い出されるのが、生誕の時に一緒であったAさん親子のことだ。私達はこのAさんと出会えたからこそ、モーツァルトをより深く知るきっかけになったのだと考えている。Aさんが自ら主催する「アマデウス」と言うグループが海老澤先生のまとめられた「モーツァルト書簡全集」を読破するのを聞いて、すごいですねーと思わず言ったら、「あなた達も読んでみたらどうですか」とにこやかに答えてくれたこと、そして何よりも海老澤先生の講座を受講するきっかけを作ってくれたのがAさんだからだ。その時も一緒に鑑賞した「ツヴィンガー宮殿」内にある絵画収集館「ゲメルデ・ギャラリー、アルテマイスター」に再び入ることになった。レンブラントの「妻:サスキアの肖像」、そしてラファエロの名作:「サン・シストの聖母」、など等・・身震いするような感動、レンブラントの光と影の魔術に、そしてラファエロの描く聖母の憂いと優しさに満ちた表情に、いつの間にか吸い込まれていくような感じがした。Aさんは昨年5月思いもかけないことが原因で急逝され、今だに信じられないのだが、きっと今は天国でモーツァルトを聴きながら、「サン・シストの聖母」を垣間見ているのかも知れない。今回宿泊のホテルが、前回Aさん親子とランチをご一緒したレストランがあるホテルだったのは偶然とは言え、また不思議な巡りあわせを感じる。

     

次の8日はドレスデンを基点に大バッハの故地ライプツィヒを日帰りで訪ねた。バッハの堂々たる青銅の像が中庭に立つ「聖トーマス教会」を真っ先に訪れたのだが、1300年代から始まって1700年位でロマネスク様式からゴシック様式へと変化を遂げながら1900年半ばの改修を経て現在に至っている。J・S・バッハが1723〜1750年にかけてこのトーマス教会で仕事をしていたこと自体重みのあることなのだが、それ以上にモーツァルトがこのライプツィヒでバッハと重要な関連を持っていたことが、我々にとって驚きの事実と言って良いのだ。


(以下は、海老澤敏著【モーツァルトとルソー:バッハ残像1789年=北ドイツのモーツァルト=】から)

1789年4月中旬ドレスデンを発ったモーツァルトは下旬にライプツィヒを訪れる。この時期のモーツァルトの手紙が幾つか失われている為、彼自身の直接の証言を欠いているのが惜しまれるが、それに代わるものとして、以下の様な記述が残されている。当時モーツァルトに出会った青年音楽家:フリードリヒ・ロホリッツ(ライプツィヒ生まれ、聖トーマス学校に学び、バッハの高弟ヨハン・フリードリヒ・ドーレスに師事し、音楽評論家として評価されていた)が次の様な記述を残している。

「ある午後、モーツァルトがライプツィヒの聖トーマス教会で、全くこっそりとオルガンを弾いていると、そのまことに見事な演奏が、彼の背後に立っていたカントル(音楽学長あるいは合唱長)で、バッハの高弟であったドーレスに強烈な印象を与えた為、彼は感激して、まるで老バッハがまた立ち現われたかとさえ思ったと語ったものであった。そのドーレスの発案で、モーツァルトの前で合唱隊がJ・S・バッハのモテット"主に向かって新しき歌を歌え"を演奏してモーツァルトを驚かせた。そして大変熱心に聴き、楽譜の写しを頼んで手に入れ、それをとても大切にした・・モーツァルトの全てが可能な精神には、この昔日の対位法家の精神の研究、価値評価、それに全き理解が欠けていないことが看てとれるのだ」

このロホリッツの証言には、俄かには信じがたいものが多々含まれてはいるのだが、モーツァルトがドーレスのごとき優れたバロック音楽の継承者、大バッハの伝統の残党に温かく迎えられたことを、ロホリッツの様な北ドイツ楽派の代弁者が認め、そして「老バッハの蘇り」とした事は、後世のモーツァルトの音楽、作品や演奏に対する賛美の言謂(いい)と言うべきであろう。

こうしたモーツァルトのライプツィヒにおけるバッハ体験、そして同地における《バッハの再来》《バッハの蘇り》との評価・受容は、モーツァルトのウィーンにおける大バッハそしてヘンデルの作品研究と創作実践の広がりと厚みと深さに支えられてはじめて、大バッハの故地で可能であったという事実である。


 

聖トーマス教会を後にした我々は、メンデルスゾーンハウス(記念館)へと向かう。ライプツィヒはメンデルスゾーンにとってバッハと同様の所縁のある町で、家族と共に住んでいた建物が修復されて今は記念館となっている。19世紀ロマン派時代の代表的音楽家はよく知られている名曲を作曲しているが、38歳で世を去り、亡くなる1年前に姉を亡くし失意のままアルプスに登り、たくさんの素晴しい水彩画を描き残している。生前の作曲をした部屋や自筆の楽譜、それに描かれた水彩画を見ると、音楽のみならず芸術における美の探究者としてのメンデルスゾーンの心に内在する美しさと儚さを思わずにはいられない。

この記念館を創設するにあたり(モーツァルトハウスの創設にも日本が多大な貢献をしていることも周知の事実だが)日本でもメンデルスゾーン協会や関係者が大きな支援活動を行っている。特に我々が毎年参加している秋の「リゾナーレ音楽祭」の総監督で今年芸大を退官された「ヴァイオリニスト:岡山潔先生」が絶大なご尽力をされたという事を、海老澤先生のお話で知った。


ゲバントハウスのロビー、天井大壁画

 

そのメンデルスゾーンが当時の重要なオーケストラである「ゲヴァントハウス管弦楽団」の指揮者に就任し、さらにその後ライプツィヒ音楽院を創設して、音楽の専門教育にも力を尽くしている。その様な音楽の町ライプツィヒに1901年音楽楽徒として希望に燃えてやって来たのが「滝廉太郎」である。廉太郎は入学後2ヶ月程の時、オペラ「カルメン」を観にいき、帰路の寒さから肺炎を起こしその後結核となってしまう。そして1年にも満たないうちの無念の帰国。明るい未来が開けていたはずの錬太郎の胸中はいかばかりかと察せられる。帰国後も僅か1年でその人生に幕を下ろすのだが、最期に廉太郎はピアノソナタ「憾(うらみ)」を残している。

バスの中で、海老澤先生にそのCDを再生してもらったが、まさしく廉太郎の無念の気持ちを表しているがごとく、滾り溢れ出る激情とひたすらな哀感が校叉したものと感ぜざるを得なかった。日本メンデルスゾーン協会やライプツィヒ市の関係者の努力により、ローデ通りとモーツァルト通りが交叉する歩道の一角に、「滝廉太郎の記念碑」が2003年6月29日に建てられた。廉太郎の下宿先の前であったその通りの歩道にひっそりと立つ記念碑は、歩いている人も余り気付かないほどの存在なのだが、なおさらのこと廉太郎の憾みと哀感を強く感じるようでもあった。

 「ローデ通りの記念碑」

余談:ゲヴァントハウスは民間では世界最古のオーケストラ:ゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地となっているが、現在のホールは1981年に再建された建築的にモダンな美しい建物で、以後の「ベルリンフィルハーモニーホール」「東京のサントリーホール」の原型になっている。叉、破壊される前のホールはドイツ芸術運動の立役者:建築家のヴァルター・グロピウス等の設計により建てられていた。

      

昼食のレストランは有名な「アウアーバッハス・ケラー」(1525年創業のワイン酒場兼レストラン)。かの「ゲーテ」や細菌の研究でベルリンに留学した「森鴎外」も通った店である。レストラン内部の壁面には明治18年に店を訪れた時の様子を表した鴎外:着物姿の銅版画がそして店の外にはゲーテの「ファウスト」の一場面の銅像が立っている。今でこそ簡単に観光などで来られるが、廉太郎を始め鴎外などの先駆者が、遠く離れたヨーロッパの地を訪れた時の衝撃とそれから始まる困難は現代人の想像を遥かに超えている。

  

まことに印象的なライプツィヒを後にして、再びドレスデンに戻り、その夜のオペラ「魔笛」に臨んだ。しかしそれがドイツオペラ最悪の幕開けになるとはその時夢にも思っていなかった。開演前から3人の童子がピエロらしき格好でステージの端をちょろちょろしている。そして幕が上がるや全員ピエロの格好。その上顔は真っ白、隈取も濃く、タミーナにいたってはステッキに山高帽、これではまるでチャップリン・・・我々はニューヨークのブロードウェーミュージカルを見に来たわけではないのだから。歌唱力もあるとは言えない舞台も第一幕を終わってみると何とはない虚しさが残るのみ・・モーツァルトの美しい音楽は何処へ行ってしまったのだろう。それでも不思議な事に周りを見れば、結構な拍手と子供連れの家族は大喜び。折角ドレスデン:ゼンパー・オパーまで来て残念である。

ゼンパーオパーのモーツァルト像

  

翌日、海老澤先生にいろいろお話をお聞きしてやっと納得できたような感じがしている。海老澤先生曰く《モーツァルトのオペラ、特に「魔笛」は「フリーメイソンの思想」と「お伽噺的な要素」の二面性を持った性格があり、最近はそのお伽噺的要素をより強調して現代人を喜ばせる方向に持って行く傾向がある。逆にそれだけ多様な解釈が出来るモーツァルトのオペラは実に奥深いと解釈する事も出来るのではないか》と、ちょっと諦め顔で仰っていたような感じがした。しかしいつも思うのだが、最近の演出家があまりにも主導権を握ったオペラの現状はこのままでよいのだろうか。作曲家の音楽性が第1番に生かされてこそのオペラだと思うのだが。


参考までにキャスティングは以下の通り

指揮:ライナー・ミューエルバッハ   演出:A・フライヤー

キャスト  ザラストロ:M・エダー  タミーノ:キム・ウーキュン                夜の女王:C・ゲッツ   パミーナ:U・セルビク                  パパゲーノ:C・プール  パパゲーナ:C・ホスフェルド

  

さあ、いよいよ今回の旅の最後となるプラハである。以前2度程訪れていて、今回も楽しみにしていた「ベルトラムカ荘(友人ドウシェク夫妻の別荘で、ここでの滞在中「ドン・ジョバンニ」を作曲している)」が所有権問題を巡って争いの最中で見られなかったのが残念。しかし「ドン・ジョバンニの初演」を始め、「フィガロの結婚」などで大成功を収め、モーツァルトはプラハ市民から熱狂的な支持を受けていた。

このプラハの町並みは相変わらず美しく、われわれの気持ちを慰めてくれる。プラハではメインとなった「ストラフホフ大修道院」へ行く。修道院に付属の聖マリア教会でモーツァルトはオルガンを弾いたと言われ、実際のオルガンを写真に収める。しかしその時にモーツァルトが書き残したと云われる楽譜がこの修道院の倉庫に残されているとの神父の説明に、早速海老澤先生により疑問視するお声。その神父もいい加減・・自分で見たこともない楽譜、そしてそんな楽譜が存在するのであれば、世界中のモーツァルト研究学者が調査に乗り出し、音楽界でも話題になる筈、そしてかのケッヘル番号もおかしくなってくる。世界的なモールァルト研究の権威である海老澤先生によれば残された詳しい資料からもそれはないのではないかと云う事である。今まで一般の観光客に何気なく説明してきたとすれば、やはり問題があるのではないだろうか? 

確かにモーツァルトにとってこのプラハは音楽活動上、重要な地となっており、プラハ市民がモーツァルトをことのほか愛した事は事実であるが、それだけに出来るだけ正しい歴史を認識できるようにして行く責任があると思う。その後プラハの街を徒歩で歩きながら、お馴染みのカルレ橋などを見物後、モーツァルトが滞在した旅館「三金獅子館」(「脚本家:ダ・ポンテ」が向かいの館に滞在)などを見て、ホテルに向かった。

      

 

さあ、その夜は今回最後、お待ちかねのオペラ「フィガロの結婚」をあの「スタヴォフスケー劇場」で鑑賞と言う段になった。本当に幕が開いてほっとした。鬘をつけ、その当時の衣装を見たときは安堵の気持ち。演出も歌手もまあまあ。でも幸せな気持ちになれるのはやはりモーツァルトの音楽の素晴しさである。珠玉のアリアと重唱による美しい旋律と喜びに満ちた歌の数々に結局酔いしれるのだ。フィナーレの出演者全員による大団円に心が躍り、満ちたりた気持ちで一杯になった。

    

キャストは以下の通り

指揮:ロバート・ジンドラ   演出:ヨゼフ・プルーデク

キャスト  フィガロ:フランチェク・ザフラドニチェク                      スザンナ:カテリーナ・クネツィコバ                         アルマヴィーバ伯爵:ローマン・ジャナール                      伯爵夫人:パブラ・ヴィコパローバ                          ケルビーノ:スタニスラバ・ジルキュー

  

大変な寒さの中で行なわれたツアーだったが、参加して本当に良かったと思う。少年時代に旅をしたイタリアなどもモーツァルトにとって大変重要な意味を持つのだが、ウイーンで円熟期を迎えたモーツァルトが、亡くなる2年前にこのドイツ北方の地に旅し、それにより彼自身どのように変化を遂げ、また深みをましていったのかが少しは理解出来たような気がしている。

北方の旅でのモーツァルトの関心事は、二つの大きな柱があって、一つは「妻コンスタンツェへの切々たる慕情」であり、二つ目は「音楽そのもの、具体的には北ドイツの音楽事情」であった。バッハの地:ライプツィヒでバッハの高弟たちとの出会いのなかで、バロックの終焉を感じながらも、バロックの残照を輝かせながら、それを途絶えさせずにモーツァルト自身の音楽の高みに到達させ、後世に伝えたものであったのではないかと感じている。

海老澤先生の講義を受けながらのこの旅は、我々にとって生涯忘れられない記憶となって残り続けると確信している。

終わり


海老澤敏著
「モーツァルトの旅」



海老澤敏著「モーツァルトとルソー」