君を置きて

今年の大河ドラマ「光君へ」、雅な宮廷文化が千年の時を超えて再現されていて、女性のファンが多い。宮中の女性たちが身にまとう十二単もきらびやかで美しく、その色合いの見事さにも惹かれている人も多いと思う。

先日放送は時の帝の一条天皇崩御がドラマティックに描かれ、タイトルは「君を置きて」。

「君を置きて」は一条天皇の辞世の句の一部である。道長の「御堂関白記」には「露の身の草の宿りに君をおきて 塵を出でぬることをこそ思へ」、行成の「権記」には「露の身の風の宿りに君をおきて 塵を出でぬることぞ悲しき」と、二の句に違いがあるが、この日記をふたりそれぞれが書き記している様子もドラマの中でも描かれていた。

私は、手を握って最期をみとったのは彰子中宮だったので、この句の「君」は彰子に向けてのものだと思って観ていたが、実は、色々な解釈があるのを後で知った。

行成は「権記」にこの辞世の句は、皇后定子に寄せられたものだ、ただしその意味を知ることは難しいと追記している一方で、道長はそばで看取った彰子を詠んだ歌として記している。

生前の定子は露が好きだったと伝わっていて、庭の草が刈られていないのを気づいた客人が、どうしてか尋ねると、定子さまが葉に露がたまる様子が好きだから、わざと刈ってないのだと教えられた話があるそうです。また定子自身の辞世の句も露を詠んでいます。そうしたことから定子あてだと行成が判断したのでしょうか?
煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ、は定子の辞世の句。

ドラマでは、東宮を決めるにあたり、道長と帝の間で板挟みになり、苦悩する行成の姿が描かれていた。蔵人頭を長年務め、誰よりも帝のそば近くに仕えた行成は、帝の願いも定子の悲しみもよく分かっていた。ドラマでは「権記」に辞世の句を書き残しながら、行成は涙を流していた。その涙には、色々な思いがあったのだと思う。

どちらであれ、一条天皇が魅力的に描かれていただけに、帝の崩御を扱ったこの回は切ないものとなった。脚本では、下の句は聞こえず、かすかなもので終わった。観るものにどう想像するかを委ねたような脚本、演出だったと思う。

「源氏物語」の魅力は「全編にわたって、登場人物たちの心理が巧みに、そして細やかに描かれている点、一方で、物語の要所要所に抽象的な表現を用いることで読者に想像を委ねている点」という研究者もいる。

今回の回は、観るものがいかようにも想像し、その人その人の感性で解釈し、感動すればいいのかなと思う。答えのない奥深さ、優れた脚本でないとそれは得られないように思う。

「源氏物語」は、明治から大正にかけて与謝野晶子の『新訳源氏物語』にはじまり、昭和に入ると同じく晶子の『新新訳』と谷崎潤一郎の三つの訳が有名である。戦後の現代語訳も円地文子や田辺聖子、平成に入っても橋本治、瀬戸内寂聴、大塚ひかり、林望と続いている。

国文科時代に買って持ち続けていた書物「源氏物語全十巻+別巻」新々訳 谷崎潤一郎 。半世紀以上大切に持っていてよかったと思っている。手に取ってみると、私の青春時代がよみがえってくる。
「源氏物語」は時代を超えて、今も新鮮な息遣いを感じる物語、世界中で翻訳されているベストセラー、いつの時代にも色あせない物語、そんな「源氏物語」にも、私はモーツァルトとの共通点を見出している♬

谷崎潤一郎訳、源氏物語

昭和45年出版 第27版

装丁が綺麗。

定価650円