明日が、貞次さんの命日、そのせいかここ数日は、貞次さんの好きだった曲、20番のピアノ協奏曲ばかりを聴いている。貞次さんも聴いていると思いながら過ごしている。
昨日はちょっと晴れたが、ここ数日は梅雨空の日が続いていて、梅雨に入ったことを実感しているが、貞次さんの亡くなった年の2021年6月は、梅雨の時期だったはずだが、不思議と雨の記憶がない。地域医療を受けていたので、看護師さんたちが自転車で毎日のように来てくれていたし、先生にも随分とお世話になったが、晴れていた記憶しかない。
貞次さんは、雨が嫌いな人だったから、うっとおしい梅雨空ばかりなら気も滅入ったと思うが、そんな記憶もない。
庭の薔薇たちも、綺麗に咲いていた。そんな2021年6月がたまらなく懐かしい。戻れるものなら戻って、またベッドの貞次さんでもいいから、話をしたい。
つい先日は、ずっとご無沙汰で、音信もなかった方からlineが届いた。
私たち夫婦を知っている人なので、貞次さんがいなくなった後の私のことが気になりながら過ごしていたこと、でも昨年秋にその方もご主人を闘病生活の末になくされて、私のことを思い出したと、lineにはそう書いてあった。
私だけではなく、人にはご無沙汰しているうちに、色々なことが起きるんだなと思った。それは先日の故郷での同窓会でも同じで、55年前の卒業以来会っていない人も勿論いたので、きっとそれぞれにいろんなことが起きて今に至り、色々な人生があったんだろうと思う。
私には、モーツァルトがあって、心の中の貞次さんと今も過ごしている、とそう書いて返事を送ったが、モーツァルトを共に楽しんだ友達なので、きっとわかってくれていると思う。
先日の70周年記念のコンサートでの三大交響曲の素晴らしかった余韻に、私は今日も浸っている。この経験で、最後の交響曲3曲はこうして連続して演奏され、その方がその素晴らしさがより実感できるのではと思っている。
ニコラウス・アーノンクールが、モーツァルトの後期三大交響曲を三幅対として捉え、統一された「交響的な総合芸術作品」だと解釈していたことは有名な話。…たしかに三大交響曲の中で、第一楽章において唯一独立した序奏部がある39番、第一楽章に導入部を持たない 40番、第四楽章において唯一独立したコーダを持つ「ジュピター」と考えると、この3つの交響曲は、ひとつのつながりとして捉えるほうが自然であると思えてきます。これらの作品が一日で一挙に演奏される機会は稀有なことで、演奏者にとっても聴き手にとっても忘れられない体験、そして知的冒険になることでしょう。
これは、この3曲を当日指揮をした坂入健司郎さんが書いたもので、「知的冒険」、本当にいい体験をさせて貰えたと思っている。出来たらもう一度と思うが、それは叶わぬこと、演奏会での出会いは「一期一会」で、もう二度と味わう事は不可能なのだ。
でも、せめてもう一度だけと、願わずにはいられない名演奏だったと思っている。
貞次さん、さっきも私はお墓参りに行ってきましたが、明日の命日も、またお参りに行きますね。。もういつの間にか4年が経つのですよ。
